Home > タグ > 世界
世界
#090 開発の現場から 【開発者と開発ツール制作者の意識のかい離】
いくつかのステップをふんで、表題の【開発者と開発ツール制作者の意識のかい離】を書こうと持っていたが、何度も草稿を心の中で繰り返し作成しているときに、不足事項は補足やコメントのリプライで繋げばいいと思った。だから今回は純粋に何がどんな風に僕自身が『どういう人が現場での開発者なのか』また、『どのような人が開発ツールの制作者なのか』と言う事から話していこうと思う。
そこから、絶対的にかい離する原因になっている溝を少しでも感じて貰えればと思う。
・開発者とは
此所で言う開発者は、現場におけるプログラマとシステムエンジニア、とにプロジェクトマネージャー(もしくはプロジェクトリーダー)を差す事にする。プリセールス、デザイナ、営業は外す。デザイナは限りなく開発者に近いが、後述するエントリに影響するので特例とさせて頂きたい。
それからこれから先のエントリでは毎回この開発者の定義を変えたいと思う。
コレは日本語的に開発者と言う事場のクラスが実装すべきメソッドがエントリによって変わる事に変わる。少々ややこしい言い回しになってしまうが、赦して欲しい。
開発者とは、プロジェクトを実務レベルで進めるプログラマ、システムエンジニア、リーダーのひとかたまりをさす事とする。
・開発ツール制作者とは
大枠でとらえると言語策定者、言語仕様創造者(アーキテクト)、またはVisual StudioやeclipseやNet Beans等に代表されるIDEのコミッタ。または各言語のフレームワーク開発者などもここに含める事にする。
日本で有名なのだとPHPのSmartyや、JavaのSeaser2や純粋言語としてはRuby等になるのだろうか。彼らを開発ツール作成者と呼ぶ事にする。
『開発者』を定義した後だと随分具体的な代表例となったような気がする。
さて、まず絶対的に違うのは分母の数である。
可用性のある言語を策定することや、新しい言語を開発するツールの作成者は、それとツールとして使って新しいシステムを作る人間に比べて数が少ない。開発ツールの制作者は開発も同時にしている事もあるので、どう考えてもその数は少ないと考えるのが当然だと思われる。
分母が違うと、そこには遊びの余裕がどんどん無くなっていく。勿論多い方が、同じだけの容積があるとすれば詰まってくるのが正しい。少ないほどに余裕があって自由であり、狭い世界を歩く事になる。
結果から言えば、開発ツールの制作者は孤独であり、孤高であり、開発者からの羨望と嫉妬を一新に受ける事になる。
具体的には、『この仕様、凄い』『便利だ』と言われる反面『ダメだ、バグが多すぎてつかえね』『この仕様じゃ実装できる機能が少なくない?』『難しすぎて訳わかんねー』とかといった二面性を常に一心に受ける事になる。
会社に属し、仕事として言語策定をしている人間であれば、ある程度は会社やチームが吸収してくれる事もあるだろうが、多くの開発ツールの制作者は孤独であり、独りで、まるでボランティアのようにしてやっているという現実がある。
コレはどのプラットフォームでも同じ事が居るだろう。
横道に逸れてしまうが、ペイントソフトやリモートソフト等、高等技術を駆使するフリーソフトを世に出している素晴らしい技術者も開発ツールの作成者と纏めてしまっても良いだろうと思う。ただ、園田レモが、割と例外なく孤独であるように思う。
制作のスタイルにも問題があるとは思う。
それは彼らが自分自身に対して大変に厳しく、そして我が儘であると言う事が言えると思う。
妥協が許せず、自分が一番である事を信じて疑わない。
人と協業してバグを一つ増やすよりも、仕様を小さくしても完璧なモノを目指す。そのような姿勢が見えるような気がする。
しかし、開発者はそのようではないと思う。勿論そのような潔癖な一面がある人が居る事は知っているが、決められた枠(言語仕様やハードウェア、もしくはネットワークの制限など、そして工数)の中で顧客が望む設計図を制作し、ものつくりをする。
そこにはエゴイスティックな側面よりも社会人として会社のために仕事をするという責務が第一に置かれているように感じる。
開発者が望む最終成果物は顧客のモノであり、自己満足するモノではない。常に先端技術を追い求めるよりも、安定版を使い、時にはデグレをしても正確なモノを世に出そうとする。
しかし開発ツールの制作者は先端技術をいち早く関知し、それをツールとして使える形にしようと苦心をする。何十年も変わらないスタンダードとして君臨したSQLをなんとかしようとBigtableをスタンダードにしようとしたり、10年前には全く現実味の無かった仮想化を仕事で使えるレベルに引き上げたりする。(仮想化自体はもう何十年も前からしそうとしてはあったはず)VMは今では当たり前だし、それ無しに業務システムの構築は出来ない。JavaやFlexはVMの良い例ではないかと思う。それ以上のモノはないのだし。
しかし、事実としてJavaが出た当時に、あまりの動作の重さに誰もそれを業務で使おうとはしなかった。VBやC++で書かれたクラサバが主流だったし、実際にそれで不都合だった事もない。
つまり、開発者はそんな不安定な最新の技術よりも少し不便でもバッドノウハウのあるレガシー名技術の砲が顧客に最適なソリューションだと考える事が出来たからだ。
開発ツールの制作者達はそれでは面白くない。
世界は自分か築いた周辺だけで終わってしまい、それを使用されない社会では自分のエゴが通用しない事を突き返される事になる。
だから心の折れない開発ツールの制作者達は、開発者よりももっと遠くを見て如何にして『自分が開発者であったときにこのツールを選ぶのか』と言う事を命題に開発を行っているように感じる。
使命感とでも言えるかもしれない。
さて、つまり開発ツールを思案している種類の人間は開発者であると同時に、自分自身を表現するパフォーマンスを行っていると考えられる。
どの辺り迄が世界であって、その世界を作るための社会をどの辺に置くのか、社会を感じている開発ツール制作者ほど具体的に夢を見ているように思う。
限界がどこであるのか、自分の中にしか持っていない。
開発者は、ツールの限界が仕様の限界が、顧客への提案の限界だと考えているように思う。だから、開発ツールの制作者に『もっと良くして欲しい』と言うのだろうと思う。
どちらが良いわけではない。
ただ、開発ツールの制作者の邦画より、現代のアーティストとして表されるべきではないだろうかと考える。
また、別項として【開発ツール制作者が本当に見たい夢】をどこかで書きたいと思う。
つまり、彼らが見ている夢は、彼らでは出来ず、開発者の誰か達に具現化して欲しいと思っているのではないかと考える。
『そう、おれはこのツールでこんな事がしたかったんだ』と言って貰える何かを作り出して欲しくて、作り続けるのではないだろうか。
- Comments: 0
- Trackbacks: 0
#074 夢のある仕事
最初に断っておくと非常に読みづらいエントリになると思うから、読まなくていい。
夢のある仕事についてどんなモノを思い出すだろう?
『アーティストに何故なれないんでしょう』というtwitterのPOSTに対してなんらかの返事をしたら、
『何でもいいんです、アーティストになりたいんです』とリプライが来た。
正直震えた。
そう、アーティストとは本来何にでも当てはまる言葉であって、アートという枠はまぁ誤用と行っても差し支えない。
デザイナにも同じ事は言えるが、コレはきちんと行動規範をつければ済む話なのでちょっと今回はボクの本業については置いておこうと思う。
絵と漫画と仕事の雑記 - 電話終わった
をよんで、この人のこともこの人の漫画も知らなかったんですけれども、激しい心の震えを感じた。
ここのところよく感じる種類の心の震えだ。
編集者にでも著者にでも無く、僕自身にオーバーラップしているわけでもなく、この、この漫画を作っているという環境についてとても感銘を受けた。そして、それは、アート以外にコメントのしようがない。
流れ出るどうしようもない出力したい力
についてボクはよく考えるのだけれども、ボクのモノはほんの小川のようなモノなので、普通の一般的な社会人生活が送れる。
つまり、ボクは未だ社会人の側にいて、その生活を捨てて何かモノを表現しようとは思わないこと。
ボクはそんなに多くも少なくもない給料をもらって、何とか都会で生活をしている。
基本的にボクと言う個人以外の支出は家賃などの諸経費なので、給料の半分ぐらいは自分自身が使える可処分所得になる。
(半分は言い過ぎか。不可侵条約によってランチは食べる。だいたい月に二万円)
で、残りは使わない文で、一応貯まっているという形を取っている。
さて、しかしボクだってモノを作ろうと思ったときは必死になる。
ボクはプロではなくアマチュアなので、人脈もなければ当たればラッキーぐらいの感じで、知り合いに頼み込んでいく。
おっと、ちょっと、なんの話をするのか先に言っておかなければ分からないので、とりあえず一番直近の院の卒業制作については無そうと思う。
細かいお金の動きは全く覚えていないが、インスタレーションをやった。
何だかんだで四〇~五〇万は使ったと思う。
自分のエゴのためだけに、キャストで出てもらった人は、ノーギャラだし、衣装の制作や機材も材料費のみで加工賃は出来る限り出来る人に頼み込んで(もしかしたらボクはへらへらしていたように見えたかもしれない。でもホンキだったんです、そう見えて不愉快になっていたらスイマセン)加工してもらった。
セッティングには延べ20人ぐらいが手伝ってくれた。
特に衣装作成を手伝ってくれた人にはこれ以上ない感謝の意を今更何らかの形で示したいのだけれども、正直、それはやっぱり表現で返す以外にないのだな、と思って居る。
つまり、殆どが原価と、スタッフさんの一部の飲み食い代だけで作られているのに、ゆうにボクの二ヶ月分の給料を使う結果になっている。
結局、こういうモノを作って自分をがむしゃらに表現しようとしても生活できないのだ
だから、自分を押し殺して社会人をしているのか?と言うと、そう言うわけではない。
ボクの場合は、特に作りたいモノが、ある一定の閾値を超えてぷつんと切れることから短時間で作ってしまわなければ自分自身が冷めてしまう。と言う、何ともアーティスト向きじゃない冷え冷えした性格なので、今のような生活は別に望んでいないわけではない。
しかしモノを作るというのは冷静な立場にいる必要もあるので、そう言う意味では上記の制作は四ヶ月ぐらいはかかっているので(実制作は一月もないけれど)その間自分の情熱が、ぶれたり変な方向にいかなかったのは凄いな、と純粋に思う。
で、何が言いたかったかというと、夢のある仕事を生み出すためには、夢のない仕事をしなきゃ行けなかったり、その仕事は社会的には仕事とは呼ばれなかったりするのではないかなと思ったりする。
中村珍さんのような人は沢山いるのかもしれないけれども、こんなにも、自分自身のあり方を文章表現にして、心を振わせてくれた人は居なかったので(何度でも言うよ)とてもとても、こういう人が居るから世界は素晴らしいのだ。と認識した。
ただ、ボクは表現は上級賭博ではないと思っている。
コレはボクが多分職業的アーティストではないことに大きく起因していると思う。
ボクはその賭博の外にいる。
そして、その外にいることを望んでいる。
同時に、もっといい生活も、安定した収入のある仕事も、きっとあるのだろうと思う。
でも、そう言うモノもお断りだ。
いまの仕事について、色々不満はあるが、ボクなりに普通であれているのではないかと思う。
ボクが生きてきた中で、この二年は最も人に迷惑を掛けないで済んでいる時間何じゃないだろうか。
誰かを傷つけることもなく、泣かせることも、我が儘に付き合わせることもなく。
あったとしても、それはボクと同じ対価をもらって仕事をしている人たちで、ちゃんと社会生活を送れている人。
ボクは誰かの生活を保障するような仕事はしていないし、ボクがミスったらボクが謝ればいいだけの、こじんまりとした世界にいる。(一寸前からは責任範囲はちょっとどころではなく広くなっているのだけれども、誰かがミスった文はボクが手を動かせば済む話)
この状況が幸せなのか?と聞かれるとそれははなはだ疑問である。
でも、珍さんのように、もしくは多くのアーティストが、特に職業アーティストが感じているボクのような『社会人』との感覚の乖離を感じながら生きていきたいのか?と思うと、それもノーである。
憧れる。でもそこまで。
森博嗣は研究が第一で、小説はお金を生むツール。と言う位置づけでクレバーに書いた。
ボクはそう言うのは全然嫌いじゃない。
才能とか、時間がないとか、そう言うことを言う人が居るけれども、それは違うと思う。
人気作家になるのは大変だろう、モノを作って其れで生活するというのは大変だろう。
でも、それは其れこそ賭博だと考えてやっているからではないだろうか。
自分が漫画家で居たいと思う。だから作る(中村さん)
自分は研究職だが、趣味の模型はもっと本格的にやりたい、だから書く。もうお金も貯まったし、そもそもボクの情熱は研究にあるだからもう執筆は辞める(森博嗣)
両方間違っていないと思う。
ただ、なんだろう。ボクだってもやもやしたモノはあるし、そろそろ焦りとかはなくなってきたけど、自分の時間を取って何かしらをこねくり回して形にしなければならないとは思っている。
そんなことを思わせて貰える記事だった。
- Comments: 0
- Trackbacks: 0
Home > Tags > 世界
- Search
- Feeds
- Meta